私がなんか語る
本やらゲームやら自分のことやら適当に
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挙手のはなし
小学校時代からよく挙手をしていた。


小学校時代。他の子に混じって挙手する私。答えがわかる前に手を挙げることすらあった。
中学時代。挙手するのは専ら私。
高校時代。やはり挙手するのは専ら私。先生まで困惑した顔をする始末。

他は誰一人手を挙げない。馬鹿な。ここはそれなりの進学校だぞ。これぐらいの問題わからないはずがない。
あるいはみな徒党を組んで、挙手しないことで先生たち(大人)へのせめてもの反発を見せているのか。
聡明な顔をした彼らがそんな青臭いことをするだろうか。

あるいは挙手をすることは恥ずかしいことだという風潮でもあるのか。
友人に問う。「私挙手してるけど、ひょっとして駄目なのかな」
「別にいいと思うよ」「そうか、ありがとう」
とりあえず迷惑はかけていないようだと判断し、その後も挙手をし続ける。


それにしても自分だけが挙手しているのでは、まるで自分が目立ちたがり屋のようできまりが悪い。

何故私が挙手していたかって、惰性である。小学校時代それが良しとされたから、中高でもそれを何となく守っていたのだ。

挙手をしないという手は選ばなかった。先生が問いかけて、みな誰も回答せずシーンとする場面は、いかにも時間の無駄に見えて嫌だったのだ。だったら誤答でもいいから私が答える。

「教室は間違える場だ」と小学校時代の教師が言っていた。わからないならせめて誤答でも「わかりません」でもいいから答えるのが誠実なのでは?というか聞かれたら何かしら答えるのがコミュニケーションの基本では?
(失礼。沈黙も一つのコミュニケーションですね。「基本」を決めつけて押しつけちゃ駄目ですね)


なんでみんな挙手しないんだろうか。ひょっとして自分がおかしいのか。
自分には秘めた目立ちたがり願望でもあるのだろうか。
目立つことをしてみる。大して気持ちは満たされない。


抑うつ状態の辛い時にも頑張って挙手をする。「ボル箱、無理しなくていいんだぞ、保健室に行きなさい」
保健室に行く。「文化祭以来なんか授業に集中できないんです」「ボル箱ちゃん。文化祭終わってからもう二週間も経つよ。軽い燃え尽き症候群ね。今日はもう帰って休みなさい」
常に頭に重しが乗っているような感覚だった。最終的に漢方薬を飲んで治す。

「辛い時は頑張って挙手しなくてもいい」というのをこの時学んで気楽になった。
というかそれにずっと気付かなかったのもやはり思い込みの強さかなぁ。

燃え尽き症候群を引き起こした文化祭での辛い記憶も協力の苦手さが原因にあるだろうな。その話はまた今度。


結局みんなが挙手したがらない理由がわからぬまま。他人の目を気にして恥ずかしがっていたのかな?
私は恥ずかしいと感じるポイントが人とズレてるようだから、こうやって想像するしかない。
みんな他人の目を気にするようになっていくのに私にはなかなかそれが来なくて、何となく小学校時代のルールに執着していたというのが正解かね。


大学時代。挙手する場面なんてほとんどない。気楽。


以上。挙手如きでもにょもにょ考えてた学生時代でした。
これも一種の些細なことへのこだわりでしょうか。まぁどうでもいいけど。
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